Fubarのブログ

死ぬまでの日記

houjiTさんとの出版停止もろもろ会話

例の件でidコールしたら回答してくれたのでまとめました。 

長くなってきたのと、100字で返せない未熟なブクマカですまねえ……  

houjiT 本題は殺した人を出すなでなく、Twitterから想像される動機で殺したことを名誉の経験として付与したのか、でしょ。その経験を設定した理由。その外堀を埋められなくて書き直しを決意したんじゃないか 
Fubar id:houjiT あの、殺人を名誉の経験として付与したとして、それが創作上の人物である限り、何の問題もないんですよ。例えば戦記小説なんかで鬼畜米英をやっつける主人公が英雄と扱われてもいいのと同じで。
houjiT id:Fubar 「兵士対兵士」での実績と言い切れれば、それでも済んだと思う。当時の日本刀による殺害は民間人等の非戦闘員が対象なのも多く、それもカウントされた可能性がある。つまりこの殺人は「虐殺」を含有しうる

 

houjiT id:Fubar なので日本版に置き換えると「東京大空襲で、大人も子供も男も女も老いも若いも全て焼き殺した男が異世界転生、爆弾使って大活躍!」になるのではないだろうか。これは多分、通り一遍の正論じゃ守れない   
Fubar id:houjiT 誠実なお返事ありがとうございます。禁忌を犯した主人公を(それが善のように)描くことがあっていいとすべきだという話なんです。そういう表現の選択肢は常に残しておくべきで、仮にこれを駄目とするなら→

 Fubar id:houjiT 歴史的な背景や明確な被害者層がない禁忌であればよいのか、どこまでが規制されるべきなのかというところを示されなければならない。そして一番重要なのはその裁定者は誰なのかということ。 

houjiT id:Fubar 善に描ける自由も大切なのは同意です。私はその上で、作品毎に漏れなく消費者(読者)が現実の事象を扱ってよいか裁定し続けるべきでないかと思うのです。禁止と許可、どちらかにベースを固定するのでなく

 私がこの手の規制議論で最も気になるのはこの裁定者の部分なんですよね。

 今回id:houjiTさんが示した消費者による裁定はこれは現実を捉えていないように思えるのです。

 あくまで出版停止という判断を下すのは出版社であり、有害だと指定するのは行政であり、読者ではないからです。

 読者の抗議があったとして、その数や内容、支持団体その他の要因を勘案して判断を下すところに必ず恣意性が含まれてくる。そうであれば強権をなるべく行使させないようにするしかないと考えます。

 読者が出来る裁定は買わないということであり、また批判することを続けていくしかないのです。そうすれば市場的な判断によって読者の求めない表現は駆逐されていくのでしょうから*1

 また現在の出版点数を考えるとさらに不可能な話だと思います。読者という集団を裁定者とする時点で、各作品を裁定する集団にそれぞれの偏りが生まれることになるため、今回の作品も18巻も出るまで容認されていたのです。

 現在の出版業界の実情は御存じでしょうか。18巻も続刊を続けることが割合としてはかなり難しいのです。つまり売れているのです。それほど多数の読者に読まれてきたにも関わらずこれまで問題になってこなかったわけです。

 ということは今回の騒動で国内外で批判をしている大多数は従来の購読者ではないはずです。読者ですらないと思われる人々の発言によって多くの読者を無視して出版停止の判断が下るのでしょうか。もちろん少数派の声を抑圧しろという話ではありません。つまり裁定基準に誰もが納得できる、あるいは説明できる根拠が不足していると思います。

 それに裁定を読者の倫理観に依拠するということは、社会の倫理が変動するたびに出版可能になったり停止になったりする書籍が出てくるのでしょうか……。

 当たり前ですが、そんなあいまいな基準で出版停止などするべきではありません。

 この話の結論として裁定者と、その基準は明確にされなければならないということです。そして裁定者が誰かというと行政と司法であり、その基準を明確にするのであれば法制化する以外に道はない。

 法があって社会道徳があるのではなく、社会道徳があって法があるように、出版物、表現についてこうあるべしという国民の社会道徳があるのであれば法制化するべきであります。あるいは有害図書として指定するのでしょうか。

 当然、私はそんなものには反対します。

 私は少なくとも創作の中では「間違った表現」は許されるべきだと思います。

 

 さてそろそろ死の呪文を唱えて全てを終わりにしようかな……。

 

『いかがだったでしょうか?』

 

おしまい

*1:この段はそもそも読者の求めない表現が駆逐されることを是としているわけではありません。また市場的判断に恣意性が含まれる可能性もあるため、結論として良いと言っているわけでもありません